沿革

末法のわれら

 いまの世を仏教では末法の時代と言われ、キリスト教では終末の世であると表現される通り、お釈迦さまもなくなって二千余年になります。お釈迦さまの教えが現実生活の中にも、次第に見当るものが少なくなっています。

 仏教の教団は数多く、仏教徒も釈迦在世のころからみると多いのですが、仏法を信ずるものが仏弟子であるとすると、真の仏弟子としてのめざめというものが問われる時代であります。

 仏法が消えて滅びてしまう、悟ることもできないことを大無量寿経巻下に
 「当来の世に経道滅盡せん、我慈悲を以って哀愍し、特に此の経を留めて止住すること百歳せん」
と示されているのが現代そのものなのです。

 この末法の時代に生きていかねばならない我が身はどう生きることが仏弟子と言われるのであろうか。現代は合理性の時代です。人間の生死の線まで合理的に解釈してそれで満足しているのです。人が亡くなると永眠したと申します。ねむることをもって死と解釈しているのです。ねむることは生きている時の状態であるにもかかわらず、死んだとは言わない。

 私たちは「生」に執着し「死」をきらうことから抜けきれないのです。仏法は生死平等に味わうところに真実性があるのですが、執着を優先して事実を都合のよいように理解しているのです。

 お釈迦さまが亡くなっている現代、入滅は事実であって永眠ではないが、仏説は真実なる故に、法は常住、衆生のいのちのつづく限り法は不変常住で、いつでも仏と共にあることをめざめることが真の仏弟子であります。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より