沿革

知るということ

 御文章に「他力の信心といふはいかようなることぞといへばただ南無阿弥陀佛なり、この南無阿弥陀佛の六つの字のこころをくわしく知りたるが即ち他力信心のすがたなり」
とありますから、知るということがとても大切なことになります。

 同じく御文章に「それ八万の法蔵を知るというとも後世を知らざる人を愚者とす」
とあって、そのあとに「後世を知る、物を知る、謂を知る、……と知る」と幾度もいくども知るという言葉が説いてあります。

 知るということを世間一般に解釈されている意味は「わかった、おぼえた、理解した、知った」となっています。すると現代の知ることの意味からして御文章を解釈すると、六つの字のこころがわかったことが他力の信心であるという解釈になりますが、これでいいのでしょうか。わかったことは人間の知識のことであります。仏の教えは人知ではなく仏智のはたらきですから、人間の理屈を持ち出しても通らないすがたで、心の底から納得するとでも申しますか、心の頭がさがって仏にまかせるとか、仏のお慈悲にめざめたことが「知る」ということであります。

 人間の知るということは、知れば知るほど驕り高ぶる驕慢がさかんになって眼が外向き、他とくらべて頭が上る一方です。

 仏法の知るということは、自分のはからいや分別が役立たないことに気づき、へりくだりの心にめぐまれるので、頭が下がるのです。

 この、へりくだりの心が身についてくださることが「知る」ということで、仏法を南無することがへりくだりの心を育ててくださるのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』 (著者 : 武田 智徳)より