沿革

お念仏

 この度は、本願寺八代目蓮如上人のお言葉を続けてお味わいさせていただこうと思います。

 現代ではお念仏といいますと、口で「ナモアミダブツ」と称えることだとみんな思っておられるでしょう。ところが、中国の善導大師さまのころまでは,そうでなかったのです。念仏とは、文字通り仏を念ずること、仏を憶うことだったのです。

 この仏を念ずるとか憶うということは、心が乱れていてはできないことです。ですから、見るもの、聞くものによって常に心乱されているものにとって、念仏することは大変むつかしいことでした。

 善導大師さまは、常に心が乱れているものでも、「ナモアミダブツ」を称えることはできるでしょうと、称えることをすすめて、念ずるとは称えることだと教えてくださいました。

 それで、現代ではお念仏といえば「ナンマンダブツ」と称えることになったのです。

 ところが、この善導大師さまの「念ずることは称えることだ」という意味がよくわからないという人がいたのです。蓮如上人は「おもいうちにあれば、いろほかにあらはるる」という諺をひいて、そのことを教えてくださいました。

 心は乱れていても、「ナモアミダブツ」のお念仏が口から出るのは、やはり阿弥陀如来を憶うこころがうちにあるからですよ、と蓮如上人は教えてくださったのです。もっといいますと、阿弥陀如来のお心が私に届いているから、「ナモアミダブツ」が口から出てくださるのです。

 ですから、自分の心をあれこれ詮索せずに、「ナモアミダブ」が口から出てくださることをよろこばせていただくのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より