沿革

無我 

 幼い頃には何かにつけて、「お母さん、お母さん」といっていたお互いが、いつのころからか「私が、私が」となって、何かにつけて、「私がこうしてやっているのに、あの人はよろこばない」、「私がこう言っているのに、誰それは聞かない」、「私がこう考えているのに、あれは違うことをする」と「私が」が前面にでてきます。

 この「私が」と「私が」がぶつかって、不隠な空気を常にかもし出しているのが、私たちの生活です。
 蓮如上人は「仏法には無我と仰られ候、我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」とご注意くださいました。私が、今、ここに生きているのは、「私が」ということで生きているのではないのです。多くの「いのち」をいただき、多くの「いのち」に支えられて生かされて生きているのです。

 この自分の身体ひとつ考えてみましても、自分でこしらえた部分など一ヶ所もないのです。ではどうして、ここにこの身体があるのかといいますと、多くの「いのち」が、私の身体になってくださったからであります。

 そして、この身体を維持するために、また多くの「いのち」にご苦労をかけているのです。多くの「いのち」によって存在せしめられ、多くの「いのち」によって何事もなさしめられているのです。

 そのことに目を開けという教えが仏法です。ですから、仏法に遇ってみると、「我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」ということになるのです。

 「私が」でなく、多くの「いのち」によってというのが、「いのち」の本当のあり方です。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より