沿革

仏法を聞く

 仏法を聞くとは、経文を覚え、偉い先生の話を覚えることではありません。経文のお言葉が、今、ここにいる私に何を教え説いてくださっているのか、偉い先生のお話は、私に何を問いかけてくださっているのかと、経文の一言一言を、先生のお話の一つ一つを、自らの身にあてて味わうのが仏法聴聞なのです。

 お経にこう書いてあるから、こう聞いておけば間違いない、先生がこう言われたのだから、こう思っておけば間違いないという聞き方は、仏法を聞いたのではなく、ただ覚えただけです。

 ですから、仏法を聞いているといいながら、「人間はみな悪人である」と覚え、「その悪人をすくってくださる如来さま」と、覚えただけの人が案外多いのです。仏法を覚え知っているだけでは、仏法は全く生きる力になりません。

 身にかけて問い、身にかけて聞くとき、仏法は何よりも強い力となって、わが「いのち」をささえてくださいます。蓮如上人は「かむとはしるとも、呑とはしらすなといふことがあるぞ」と教えてくださいました。

 すなわち、「食物でも、しっかり噛んでその味を十分に味わうことが大切であるということを教え、鵜呑みせよと教えてはならない」と教えてくださったのです。

 そして、続いて、「妻子を帯し、魚鳥を服し、罪障の身なりといひて、さのみ思のままにあるまじき」といわれました。

 仏法をしっかり噛みしめて味わえば、「罪の深い人間だから、悪人だからといって、勝手気ままな放逸無慚の生活などできるはずがない」といわれたのです。

『聞法(昭和62年8月1日発行)』(著者 : 藤田 徹文)より