沿革

宗祖降誕会

 親鸞聖人は、今から818年前の1173年にお生まれになっています。しかし、お生まれになった日まではわからないので、本願寺では、毎年5月21日を親鸞聖人のお誕生日として、降誕会を勤めます。

 降誕会というのは、降りるの降と誕生の誕と書きます。なぜ誕生と言わずに降誕というのでしょうか。

 誕生の誕の字を辞書で調べてみますと、うまれるという意味のほかに、いつわる・いつわりという意味があります。何か変な感じですね。人が生まれることを誕生といい、おめでたいことだというのに、そのもともとの意味がいつわりというのですから。

 ある先生にうかがいますと、
「それでいいじゃないか。うそ、いつわりだらけの世の中に生まれてくるのだから。」とおっしゃいました。

 なるほど、そういわれるとそうです。私たちはよく真実という言葉を使いますが、それらは皆、私の都合に合わせた真実です。ですから、真実がいくつもあることになります。そういう自分の都合中心で生きている私を、如来さまは、煩悩具足の凡夫と悲しまれ、真実に生きてくれよと南無阿弥陀仏と喚んで下さっているのです。そういえば、親鸞聖人は『歎異抄』に、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
とおっしゃっています。

 この世の中には、うそいつわりばかりで真実はない。ただお念仏だけが真実なんだと。しかし、親鸞聖人といえども、最初からこう言われたのではないでしょう。お念仏という阿弥陀如来さまの真実に出遇われたからこそ、こう言えたのです。

 そして、親鸞聖人は、私にお念仏こそが真実ですよと教えて下さいました。私は、親鸞聖人がおられなかったら、今生においてお念仏に出遇うことはなかったでしょう。そうすると、親鸞聖人は、阿弥陀如来さまの真実であるお念仏を伝えるために、うそいつわりのこの世界に降りてきて下さったのでしょう。だから、誕生と言わずに降誕というのです。

『聞法(1991(平成3)年7月13日発行)』(著者 : 義本 弘導)より