沿革

お取り越し報恩講

 11月ぐらいから、あちらこちらのお寺で報恩講が勤められます。それをお取り越し報恩講といいます。これは、御本山の御正忌報恩講に先立って、各お寺でお勤めし、御正忌は、ご本山にお参りしようということなのです。

 そんな面倒くさい、御本山でお勤めがあるのなら、それだけでいいじゃないかとおっしゃる方がおられたら、報恩ということについて、少し考えていただきたいものです。

 報恩とは、恩に報いるということですね。恩に報いるということは、私が何かの恩を受けたからです。どんな恩かといいますと、私にお念仏を届けて下さった恩です。では、だれが届けて下さったのでしょうか。親鸞聖人は、歎異抄に

 「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもてむなしかるべからず候うか。」

と親鸞聖人御自身に伝わったお念仏の道筋を語っておられます。

 親鸞聖人には、阿弥陀如来さまが「必ずあなたを救う」と誓われて、南無阿弥陀仏というお念仏になって下さったことを、お釈迦さま、七高僧の代表として善導大師、そして、直接のお師匠様である法然上人によって伝えてくださったことがよくわかります。

 それに続けて、私まで考えてみますとどうなるのでしょうか。親鸞聖人まで届けられたお念仏を私の御先祖は、それこそ命をかけて、子孫に残そうと努力され、今私に伝えて下さいました。その御恩に報い、感謝して、報恩講を勤めるのならば、何度お勤めしても、しすぎたということはないでしょう。

 ハワイのある方が、こんなことを話しておられました。

 「ハワイの浄土真宗に御縁のある家庭に育った子供たちに、自分の親が残してくれた最大の財産は何かと尋ねると、必ず、それはお念仏ですと答えます。日本ではそのような答えを聞くことができませんね。」

 お取り越しの報恩講を御縁として、よく考えてみなければならないお言葉じゃないでしょうか。

『聞法(1991(平成3)年7月13日発行)』(著者 : 義本 弘導)より