沿革

差別

 国立大学を卒業して弁護士をしておられる方が、ある日曜日、畑仕事をしていました。その時、小学校の1・2年生の子どもを連れたお母さんが畑の近くを歩きながら、子どもにこう話していたそうです。「坊や、しっかり勉強しなかったらあのオッチャンみたいになるよ」。

 大変な差別ですし、いのちを見失った言葉です。差別というのは親が子どもに教えていることが多いようです。部落差別でも、親が子に「あの家の子どもと遊んではいけない」、「あの地域に行ってはいけない」と教えています。

 とても恐ろしいことに、親自身が差別していることに少しも気づいていないのです。そして私たちも同様に、差別し人を傷つけていないでしょうか。障害者の方に対しても、知らぬ間に高い所から、「可哀想」とか、「生まれてこない方が良かったのに」と見下ろして差別していないでしょうか。

 現代の世間の価値観は、健康、財産、能力、学歴、地位等によっていのちの軽重を量っています。それ故、先程のお母さんのように、我が子に高い学歴、収入、地位を求めて、知らぬ間に多くの人を差別しているのです。

 悲しいことに私たち現代人は、この世間の価値観が骨の隋までしみこんでいますから、知らず知らず思いあがり、多くの人を差別していないでしょうか。仏法をくり返し聴聞してこの私の姿を明らかにしていかねばなりません。阿弥陀さまは、私の罪業の深さを気づかせ、いのちにめざめよとつねによびかけられています。

 石川県の松本梶丸先生は、「信仰の世界に生きるものは、あらゆる事象にふれて人間の驕り(おごり)が見えてこなければならない。みずからの罪業の深さを感じなければならない。それでなければ信仰という名の観念をもてあそび、そこに酔うているだけではないか」と教えられています。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より