沿革

身自当之、無有代者

 『仏説無量寿経』に、「身自ら之を当(う)け、代わる者あることなし」という言葉があります。どういう意味かといいますと、人生の中で苦しいこと、悲しいことに出遇っても、誰も代わってくれないし、自らこの苦しみ悲しみを引き受けて生きなければいけないということです。

 お釈迦さまが、「人生は苦なり」と説かれていますように、生きることは、さまざまな障害や苦難に直面し、思い通りにはいきません。苦しみは、たとえ仏や神に熱心に祈ってもなくなるものではありません。自ら引き受けなければならないのです。しかし引き受けることのできない人は、「何で私だけがこんな目にあうのか」と愚痴や腹だちの心をおこし、そこから逃れるような宗教に走り回っています。また最近では、苦しみの原因を、水子や先祖や墓や暦、方角等に責任転嫁して迷っています。「身自ら之を受け、代わる者あることなし」です。

 たとえば我が子が苦しんでいる時、親としてみるに忍びない、もし代われるものなら代わってやりたいと心から思っても、どうしようもないのです。代わることはできない。子どもに与えられた苦しみなんです。子どもがその苦しみを引き受けていくしかないのです。

 阿弥陀さまも、私たちの苦しみをご覧になって、もし代われるものなら代わってあげたいと思っても、代わることはできないのです。阿弥陀さまといえども、因果の道理を曲げることはできません。しかし苦悩の有情をどうしても救わずにおかないと誓われ、ではどうしたら救うことができるのかと長い間苦しまれ、これだったら十方衆生の人々を救うことができると阿弥陀さま自らが、南無阿弥陀仏となって、「我にまかせよ、必ず救う」とよびつづけて下さっているのです。

 ご和讃に「如来の作願をたづぬれば、苦悩の有情をすてずして、回向を首としたまひて、大悲心をば成就せり」とありますように、阿弥陀さまの大きな悲しみの心が南無阿弥陀仏という働きになったのです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より