沿革

摂取不捨

 20歳の学生のレポートに「私も何度か自分自身が嫌になり、もうどうなってもいいと思ったこともありました。そしてそんなふうに思っていると、自分の悪い面ばかりしか見えなくなってしまい、自信がなくなってしまいました。けれど『私が私を見捨てても南無阿弥陀仏は私を見捨てない』という言葉を聞いて、どんなに人に裏切られ、自分自身を捨てたくなっても、私を見守って下さる阿弥陀さまがいるんだなあと感動しました。どんなに苦しい立場になっても、阿弥陀さまだけは、自分を見守って下さるということが身につけば、自分自身にも自信をもてるようになるし、頑張ろうという気になれます」とのべていました。

 また次の学生は、「私はよく自分の都合で仏さまや神さまを信じ、都合が悪くなり、願いが叶わなければ、神も仏もあるもんかと腹をたてています。結果次第でいつ不信になるかわからないような人間だから、私のそばをいつも離れず、どんなことがあっても私を見捨てないという言葉は、何ともいえないうれしさがあります。」と答えていました。

 私たちが自分を見捨て、自殺しようと思っても、一時も休まず心臓は働いているし、呼吸をつづけています。「どうかつらいだろうが、しっかり生きておくれ」と必死になって働いています。同じように阿弥陀さまは、「あなたがあなたを見捨てても、私はどんなことがあってもあなたを見捨てない」と一時も休まず働いて下さっているのです。

 その阿弥陀さまの心を、浅原才市さんは、「私しゃあなたに拝まれて、助かってくれと拝まれて、ご恩うれしや南無阿弥陀仏」と歌っています。また東井義雄先生は、「拝まれない者も拝まれて生きているのです。拝まない時も拝まれて生きているのです」と話された言葉がとても心に響いています。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より