沿革

信心

 信心といえば一般に、私の方から仏や神を信じることだと思われていますが、私の方から信じるというのは、まだ仏や神を信じているのではなく、信じたいという願望であり期待なのです。まだ信じていないのです。

 信とは本来、私の方から信じるのではなく、信じさせてもらうものです。裏切ることのない確かのものに遇うことによって信は生まれてくるのです。

 たとえば子どもが親を信じるのではありません。親を信じない子どもはたくさんいます。子どもが親を信じるのではなく、変わることのない親の愛情が子どもを信じさせるのです。親の愛情の方が先に働いているのです。

 また学生が先生を信じるのではありません。先生を信じない学生は多いです。しかしこの先生は信じられるという先生もいます。それは学生が先生を信じたのではなく、先生の人柄や人格が学生を信じさせているのです。

 同じように私が仏さまを信じるのではありません。私の方から信じるのであれば、私の都合で信じることになるし、自己満足におち入り易いし、結果が悪ければ仏も神もあるものかとすぐに不信になります。

 そうですから、私が仏さまを信じるのではなく、決っして変わることや裏切ることなく、間違いなく私を救うという阿弥陀さまの大いなる願いが私の心に届き、疑いがなくなった時、信心が生まれるのです。そこに大きな喜びと安心が得られるのです。

 阿弥陀さまは、どこまでも自力では救われ難い私たちの正体を見抜かれ、世界中の神々や多くの仏や菩薩がたが、あなたを見捨てても、私は決っして見捨てないと南無阿弥陀仏となっていつでもどこでも働いてくださっています。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』(著者 : 不死川 浄)より