沿革

1対1

 この頃「1対1」という態度がなくなってきたように思われます。情報の多い時代になって自分自身が失われて大勢の中に流されている時代が現代であります。

 では、「1対1」とはどういうことでありましょうか。

 例えば、20人程の方がお寺にお参りにこられて、お話を聞いて下さっているとします。お話しは、20人に向かって語られます。しかしながら、私の聞き方としては、20人の中にまぎれて聞くのではなく、私一人に向かって話しかけられているという姿勢、すなわち、仏様と私と真むかいになって聞く態度が大切なのです。仏教を聞くことは、仏様に自分自身の人生を真剣に問いかける事なのです。

 さて、近頃はお稽古ごともさかんで一人がいつくものことに挑戦しておられます。

 はじめた動機を訊ねると、みんながそうするから私も時代に遅れないようにしたいという答えがかえってきました。

 みんながそうするので私も…。なるほどそれには一理あるのですが、それでは何事も身につきません。そこには主体性がないからです。お稽古ごとでも、先生と私との真剣勝負でなくてはなりません。ここに初めて「1対1」になることができ、学ぶ姿勢と尊敬の心が生まれるのです。

 人生においていろいろの苦しみにあう時、親といえども子供といえども代わってもらえず、代わってやることも出来ません。一人で乗り越えなければならないのです。限られた人生をどう生きるのか。このことを生涯仏法に問い続け、凡夫のまま救われる道をお示し下さったのが親鸞聖人であります。

 本願力に遇いぬれば、むなしく過ぐる人ぞなき…。このご和讃は、まさしく如来様と「1対1」の生涯の中で確信されたお言葉でありました。
「如来が私のいのちになりきって救いたまう」

 今一度味わいたいものです。

『聞法(1994(平成6)年8月1日発行)』(著者 : 西郷 教信)より