沿革

熊はんと御隠居が読む阿弥陀経:その6

御隠居 「如是我聞のところで寄り道をしてしもうて、六事成就のあと四つが残っとりましたな。」

   「そうでんがな、あと四つて何でっか。」

御隠居 「それはな、時、主、処、衆というてな、いつ誰がどこで誰に向かって説いたかということなんや。『如是我聞』の次に『一時』とあるやろ、それが時やな。」

   「そしたら、一時というのは、午前でっか、午後でっか。」

御隠居 「ちゃうちゃう、その一時やないんや。これはある時ということやな。」

   「なんではっきりした時間をいわんのでっか。」

御隠居 「それはな、このみ教えが単に昔話ではないということを表してるんや。つまり、今、私が聞かせてもろてる時が、一時ということなんや。」

   「へえー、さよでっか。そんなら、次の『仏在』というのが、主でっか。」

御隠居 「ちゃうがな、『仏』だけが、主になる。主というのはお釈迦さんのこと、説いてくれはった人のことや。」

   「それやったら、お経はみんな、お釈迦さんが説かはったんとちゃいまんの。それをわざわざ言うこともないと思いまっけどな。」

御隠居 「そらそうかもしれん。けど、あっちのお経には出てて、こっちのお経にはでてないとなったら、おかしいやろ。それに、六事成就がないとお経やないとさだめられたんは、お釈迦さんなんや。それは、きっとお釈迦さんがおられんようになって、その教えを弟子が伝えていく時に、そのことを説いたんは、私やから、その内容に間違いがないということも、私が責任を持つと、お釈迦さんが気い使われたんちゃうやろかなあ」

   「そら、そうでんな。どこの誰がゆうたかもわからん話やったら、その中身を信じるわけにいきまへんもんな。ましてや、わての人生を左右するような話なんやから、誰がゆうたかは、はっきりしといてもらわんとな。」

御隠居 「ほんまにそういうことやな。私らの人生を左右するような話やと聞いていかなあかんのが、お経ということやろな。こりゃ、熊はんに教えられましたな。」

『聞法(1995(平成7)年9月1日発行)』(著者:義本弘導)より