沿革

熊はんと御隠居が読む阿弥陀経:その13

   「極楽いうたら、楽の極まったと書きまんな。」

御隠居 「なんや、熊はん。いきなり、何いうねんな。」

   「いや、わて植木屋でっしゃろ。」

御隠居 「今頃、何いうてんねんな。せやから、私とこにも来てもらうようになって、こうやって、2人で阿弥陀経を読むようにもなったんやないか。」

   「いや、そうでんねん。それでね、植木屋いうたら、天気に左右されまんねん。今年の夏は、雨ばっかりでしたやろ。」

御隠居 「そやったなあ。梅雨が明けんままに夏が終わったようなもんやったな。けど、それがどうしたんや。」

   「それがどうしたて言われたら言いにくいことなんでっけど。雨やったら、仕事行けしまへんやろ。それで、家でゴロゴロしてたら、うちのかかあがいつまでゴロゴロしてるんや、仕事いっといでとどなりますんや。極楽行ったら、思う存分ゴロゴロ出来るんでっしゃろなあ。楽が極まるんでっさかいに。」

御隠居 「なんや。回りくどい言い方して。結局、さぼりたいていうことなんやろ。」

   「まあ、結局そういうことなんでっけど、ほんまに極楽行ったら、気兼ねなしにゴロゴロ出来るんでっしゃろか。」

御隠居 「熊はん、それは楽の意味違いや。極まりというのは、越えてるということなんや。つまり、この世の苦楽を越えた楽を受けていくことが、極楽ということなんや。」

   「へっ、この世の苦楽を越えた楽て、どういうことなんでっか。」

御隠居 「それはな、七高僧の3番目の曇鸞大師が、楽には3種類あるとゆうたはるな。」

   「3種類の楽でっか。」

御隠居 「そや、先ず、外楽というて、美味しいもん食べたり、上等な服着たり、ええ家に住んだりするような外側の楽しみのことや。次に、内楽というて、これは精神的な楽しみということやな。それで3番目が極楽の楽のことやけど、それを法楽楽というて、仏法を身に得た楽しみで、これは阿弥陀さまの功徳によって得られ、悟りの智慧から生まれてくるとゆうたはるな。」

   「なんや、ややこしいことでんな。それどいうことだんねん。」

御隠居 「せやな、どういうたらわかるかな。」

   「どう聞いたらわかるかな。」

御隠居 「これ、なぶるんやない。えーっとな、本当の楽しみや幸せというのはな、物によって得られるもんでもないし、心の持ちようでもないんや。どんな場合でも、楽しみや幸せが感じられる身になることなんや。それが法楽楽ということなんや。」

『聞法(1995(平成7)年9月1日発行)』(著者:義本弘導)より