沿革

熊はんと御隠居が読む阿弥陀経:その28

   「御隠居はん、こんなとこに日を数えたはりまんな。これなんでんねん。」

御隠居 「ああ、この『若一日 若二日 若三日 若四日 若五日 若六日 若七日』のことかいな。」

   「そうです。若いもんが、日にちの計算でもしてまんのか。」

御隠居 「ははは、そうやないんやで。若いというのは、もしということなんや。これはな、数をきっちりと決めへんということなんや。このことを話す前に『執持名号』の執持のことを話とかんなあかんな。」

   「まさか、『執持名号』とは、名号を書くことである、何てこといわはりまへんやろな。」

御隠居 「当たり前や。おまはんとは違うで。親鸞聖人が解釈してくれはったのんを見てみると、執とは、阿弥陀さまの名号を信ずる心が堅くて移転しないことで、持とは、名号を称える心が散り乱れたり、失われたりしないことといわれてるんや。つまり、執持名号ていうたら、名号を信じて称えることということで、他力の信と行をあらわしてるといわれるんや。」

   「おっと、寝てしもうてましたわ。むつかしい話でんな。」

御隠居 「あーせやな。なんで、むつかしいかというたらな、ここんとこは、一生懸命自分の力でお念仏しましょうというのが、表向きの読み方なんや。せやけど、それやったら、阿弥陀さまの教えの中心である他力ではないわな。『阿弥陀経』は浄土三部経の一つなんやから、表向きは自力のお念仏を勧めたはるように見えても、その底には他力の教えが流れてるはずやと、読まれたんが親鸞聖人なんや。そのためには、ようよう考えて読まれたんやな。それで、むつかしなったんや。」

   「はあー、さよでっか。親鸞聖人はいろいろ考えてくれはったんでんな。その親鸞聖人が執持名号は、他力の信と行をあらわしてるというたはるんやったら、そうに違いないでんな。」

御隠居 「なんや、えろうものわかりがええな。」

   「そうでっしゃろ、御隠居はんに鍛えられましたわ。それででんな、執持名号が他力やと聞いたら、若一日がきっちりした日数をいうてるんではなく、数にこだわらずに、いのちあるかぎり、お念仏申す人生を送らせてやりたいという、阿弥陀さまのお心があらわれてるんでんな。」

御隠居 「そういうことやな。そうなると、後の『一心不乱』というのも、一生懸命ということではのうて、ふたごころのない真心やから乱れることがないということで、やっぱり、他力の事をいうたはるんやな。せやから、他力念仏以外にはお浄土に生まれていくことがでけへんと、他力念仏を勧めてくれたはるんや。」

『聞法(1995(平成7)年9月1日発行)』(著者:義本弘導)より