沿革

また、旅にでよう

 「平和って何ですか」と問うと、「戦争のないこと」と言う以外に答えが返ってこずに驚いたことがあります。本来平和とは、すべての“いのち”が等しく尊ばれ、一切の差別も区別もないことであり、戦争は差別の最たるもので、戦争がないのは平和のための条件ではあっても、戦争がないからイコール平和ということにはなりません。

 ところで、念仏者としての平和運動というのは、私は反戦ではなく、非戦または不戦ということであろうと思います。反戦という形の方が見えやすく、行動的なように思えますが、『仏説瑠璃王経』の「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」とのお示しより伺いますならば、争いに反対するための争い、大を生かすために小を殺すというようなことがあっては、ならないのです。いかなる理由があろうとも、人が人を殺すという、自らの利益のために、他を害するということが、あってはならないのです。

 ルリ王によって、自らの母国であった舎衛城が攻め滅ぼされ、釈迦族の滅亡を眼のあたりにされたお釈迦様は、悲しみの中より立ち上がられ、「阿難よ、私はまた旅にでよう……人びとがこのようなありさまであるからこそ、私は救いの道を説かねばならぬ」とおっしゃり、お説法の旅を続けられます。

 このお釈迦様のお言葉に、私たちの行動の原理があろうかと思われます。つまり、殺す者も殺される者も、共に悲しい存在であり、共に救われねばならない存在であるということであります。

 親鸞聖人は『歎異抄』に「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」と教えて下さっております。私たちは、その時その時の縁によっては、本当にどのような行動もする可能性を持っております。

 そのような私が、どう平和運動にかかわるのかと、反問する時、私の視点の善悪ではなく、如来・聖人の仰せに、私の行動の規範を求めることの大切さに気付かされます。

 時間がかかり、まどろっこしいかも知れませんが、一人ひとりが同じ尊さ、同じ阿弥陀如来様のはたらいて下さっている“いのち”、御同朋でありました。同じ如来様を親と仰ぐきょうだいでありましたという、めざめの輪を拡げていくことではなかろうかと思います。

 阿弥陀如来様を親と仰ぎ、同じ如来様のはたらきによって、同じ如来様のお浄土へ帰らせていただける、この身の喜びの輪を、一人でも多くの人に伝えることができれば……と思うことであります。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より