沿革

許せない

 阿弥陀如来様のすくいのはたらきを、「摂取不捨」という言葉であらわします。

 摂取とは、どれほどにげようとしても、決してにがすことのないはたらきです。

 不捨とは、一度つかまえたならば、二度と、はなすことはないというはたらきです。

 ですから、阿弥陀如来様のはたらきが、摂取不捨であるということは、どんなことがあっても、決してあなたを見捨てることはないから安心せよ。もし、一人ぼっちにするようなことがあるなら、阿弥陀とは名告らないとおっしゃったのであります。

 ところで、「不捨」つまり捨てないということは、如来様のお心にそむいて、自分中心にしか生きることのできないこの私を、如来様は、許して下さったということですね、と私におっしゃった方がありましたので、私は、「違います。不捨、捨てないと言うことは、むしろ不許、許せないということです」と言い、次のような話をしました。

 月忌参りに行き、おつとめがすみ、お茶が出ました。お茶うけにチョコレートが出ています。いつもはすぐにそばへ来る幼稚園へ通う女の子が、今日は、敷居際で、じっとチョコレートをにらんでいます。

 電話が鳴り、お母さんが立って行きましたので、「いいよ」と言うと、ニッコリ笑って女の子はチョコレートを口に入れました。そこへお母さんが戻ってきました。血相を変えて怒るお母さん。目に涙を一杯溜めながら泣き声を出さず、じっと私をにらむ女の子。

 私は、子どもだから仕方がない。許してやってと、お母さんに謝りました。

 私は、「子どもだから仕方ない」と許せるのです。なぜでしょう。極論すれば、わが子ではないから許せるのです。責任を持つ必要がないから許せるのです。

 親は、許せないから育てるのです。しつけとはしつつづけること、と教えていただきました。

 決して許すことができないから、いつも、南無阿弥陀仏と、私にはたらいて下さっているのです。

 自分中心にしか生きようとしない私。阿弥陀様は、そんな私を決して好きなわけではありませんが、阿弥陀と名告ったかぎり、親であると名告った限り、決して見捨てることがないと、はたらいて下さっております。

 決して見捨てることなく、育てて下さってある喜びを、大切にしたいものです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より