沿革

うち、腹が立つ

 だいぶ前のことですが、寺へ帰りますと人だかりができており、「なにか・・・・・・」とのぞくと、自動車が玄関前の鉄柱にぶつかっております。

 事情を聞きますと、交差点で出会い頭の衝突事故を起こし、その衝突の勢いで1台の車が、寺へ突っ込んだということで、よく見ますと、厚さ、1.5センチあります鉄柱が折れ、車は大破しておりまして、いまさらながら衝撃の強さに驚かされたのですが、ケガ人のなかったことが、幸いでありました。

 人混みの中で、私の姿を見つけ、「大変でしたね。びっくりなさったでしょう」と、声をかけて下さる方があり、「ご心配いただきまして有り難うございます」などと、あいさつを交わしていたのですが、しばらくして振り返りますと、私に大変ですねと声をかけて下さった方が、ご自分の奥さんに、「だけど、うちやのうてよかったな」と、おっしゃったのが耳に入りました。

 この人を責めようとは思いません。私たちの本当の相を見せて下さったのです。古来より「隣に蔵が建ちゃ、うちは腹が立つ」と、言い表わされておりますように、自分中心で、自分さえ良ければそれで良いというのが、私の本性でありまして、本当に共に喜び、共に泣くということのできにくいのが、この私であります。

 このような私のありようを、最も悲しまれたのが、阿弥陀如来様であります。「私が親である」という名告りこそ、「南無阿弥陀仏」であります。

 あなたは気付かずに、他人だと思い、他人事と笑っているけれども、あなたと同じ、この阿弥陀の“いのち”を分け合った、同じ「仏の子ども」なんですよ。仏になるべき身として“いのち”をいただき、今、仏になるべき身として育てられつつある“いのち”なのであって、決して他人ではなく、同じきょうだい、仲間なんですよ、早く目覚めて下さい「南無阿弥陀仏」と、はたらいて下さっているのです。

 同じお念仏を喜んでおられる人びとを、親鸞聖人が、「御同朋・御同行」、つまり同じ阿弥陀様を親と仰ぐきょうだいで、同じお浄土への道を共に歩む仲間でありましたと、手を合わせていたかれた生き方を、共どもに学ばせていただきたいものであります。

 「み仏の 光の内に 我を生みし 我がたらちねは 尊とかりけり」と詠まれたお方がありますが、すでに「南無阿弥陀仏」のはたらきの内にある私に、気付かせていただきたいものです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より