沿革

もう遅い

 自分のことぐらいは自分でする。誰の世話にもならん。こんな偉そうな口はきくものではない。いくらガンバッテみても、自分ではできないことがいくらでもある。そのひとつが棺おけのフタをすることである。

 浄土真宗の教えというのは、いつでも阿弥陀様が先手で、そのままのすくいであるから、もう遅いは、棺おけのフタをされてからでいいので、そこへ行くまでは、いつでも間に合ってよかったと言うことだ。

 私の恩師が、よく口にしておられたお言葉ですが、阿弥陀様のお慈悲のはたらきを、よく表して下さってあり、味わい深いお言葉であります。

 阿弥陀さまのすくいは、いつでも先手の法であります。私が気付く前に、祈ったり、願ったりする前に、私を見抜いた上で先にはたらいて下さっているのです。しかも、何一つとして条件をつけることなく、まったく無条件のすくいが、いつでもこの私のところへはたらいて下さっているのです。

 ヨチヨチ歩きの子が、階段のところにいるのを見たならば、あなたはどうなさいますか。私は「落ちなきゃいいが、危ないな」と思いつつ、多分見ているでしょうし、時には子どもの所へ行くかも知れません。

 階段の所にいるヨチヨチ歩きの子を、親が見たならどうでしょう。「危ない!」と言うより先に、子どもの所へ走り出しているのではないでしょうか。子どもが助けを呼んだり、危ないと気付く前に子どもの所へかけより、子どもを抱きしめながら、「危ない思い、怖い思いをさせてごめんね」と、語りかけているのが、親ではないでしょうか。

 私のありよう、現在地を見抜かれた如来様は、じっとしておれなくて、先にはたらきだされたのであります。気付きもせずに、悠然と眼前の楽しみを追う私を、そのまんま抱きしめ、ここに阿弥陀がいるから、安心せよと喚びかけて下さっているのであります。

 ひとつでも条件をつけられたならば、真っ先にもれてしまうのが、この私でありますから、「もう遅い」は成り立ってしまいます。

 この私をもれさせたならば、決して阿弥陀とは名告らないと誓って、成就してくださったのが、「南無阿弥陀仏」でありますから、お念仏を聞かせていただきますとき、いつでも間に合ってよかったという喜びがあります。

 間に合ってよかった南無阿弥陀仏。有り難うございます。大切にしたいものであります。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より