沿革

等しく

 お経には「一切衆生 悉有仏性」というお示しがあります。これはすべてのいのちあるものは、みな仏になる可能性を持って、生まれてきているという教えであります。

 また、阿弥陀如来様は、「十方衆生」を必ずすくうと誓い、はたらいて下さっております。

 十方というのは、東・西・南・北・北東・北西・南東・南西の八つに、上下を加えたすべての世界です。この十方のいのちあるものを、必ず仏にすることができなかったならば、阿弥陀如来とは名告らないと、誓い、はたらいて下さっているのです。

 ですから、私たちは気付いていなくとも、どんな生き方をしていても、すべて仏となるべき“いのち”を生きているのであり、願われて生きているのです。換言するなら、私たちは、阿弥陀如来様にすくわれるべき“いのち”を、生きているということができるのです。

 人間に生まれさせていただいた尊さに目覚めるというのは、このように仏となるべきいのちを生きているということへの、目ざめ、気付きなのであります。

 大切なことは、この私の“いのち”が願われているだけではなく、すべての“いのち”が、阿弥陀如来様にすくわれるべく、今生きているのです。

 ややもすれば、日常の生活の中で、ともすれば“いのち”の尊さ、如来様のはたらいて下さってある“いのち”であったということを忘れてしまい、どんなにか“いのち”を粗末に扱っていないでしょうか。

 私が尊い“いのち”、如来様のはたらいて下さってある“いのち”を生かされていることに気付く時、初めて、すべての“いのち”が等しく、尊いと気付かされるのであります。

 同じ阿弥陀如来様が、はたらいて下さってある尊い“いのち”でありました。同じ阿弥陀如来様のお浄土で遇わさせていただく“いのち”でありましたと目覚める、すべての“いのち”への共感もめばえ、「たがいに敬い、たすけ合う」という人間関係が成立し、南無阿弥陀仏にいかされる私の人生が展開していきます。

 南無阿弥陀仏のみ光りは、ときもところもこえ、人種や、肌の色の違いや、家柄・・・・・・、そんなもの、何の関係もなく、等しく“いのち”を育てて下さってあるのです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より