沿革

ナミダ経

 もう30年近くも前のことですが、私には決して忘れることのできない、大切な出遇いがあります。あるお寺へお伺いし、ご住職に聞き取り調査をさせていただきました。調査も終わりお礼を述べて帰ろうとすると、「まあお茶でも」ということで、いただきながら、世間話をしておりました。

「ところで、あんた。門徒さんの家へ、お参りに行くことはあるか」
「はい。ときどき」
「お経は、何をおつとめしているんや」
「急ぐ時には偈文、時間に余裕があれば正信偈・・・・・・。でも、一番多いのは阿弥陀経でしょうか・・・・・・」
というやりとりをしておりましたところ、
「おい。あのお経は、本当に『阿弥陀経』か・・・・・・」
「はい。『阿弥陀経』です」
「本当か」
何度も念を押され、少々腹が立ってきましたので、
「違うんですか」
「私は、何回読んでも、『仏説ナミダ経』や」
「はあー」

 「人間、生きているということは、必ず人知れず流してくる涙がある。人生、長ければ長いほど、人知れず流した涙の量も多いということだ。私が今日までの人生で、人知れず流した涙が、一体どれほどあったであろうか。その私の流した涙の、何倍もの涙を流しながら、私を抱きしめて、共に泣いて下さってあるお方を、阿弥陀如来と申し上げる。その阿弥陀様のお心を、説きあかして下さってあるお経だから、私には『仏説ナミダ経』としか読めないんだよ。」

 60歳前後と見えるご住職が、背筋をピッと伸ばし、本当に嬉しそうに、合掌しながらお話し下さるのでした。『仏説ナミダ経』その通りであります。私の悲しみ、苦しみを、他人事にしておくことができなくて、いつも私のところへはたらいて下さっているのであります。ここに、もう解決できているよ、と喚びかけて下さっているのであります。

 笑顔で合掌しておろれたご住職の姿と共に、忘れることのできない言葉であります。如来様にいただかれてある喜び、大切にしたいものです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より