沿革

おイモさんの一生

 私の尊敬し、お世話になっている先輩が、ご門徒さんのお家へ月忌参りに行かれ、繕い物をしておられたので、「繕い物ですか」と声をかけると、「はい。しかし、この年寄りの私でも、もうこの足袋ははけません」と言いながら、話して下さったそうです。

 「ご院さん。お寺の法座で、凡夫の私を阿弥陀様だけは、お見捨てでないと聞かせて下さいましたでしょう。

 そう聞かせていただきましてから、この足袋を捨てても、誰からも文句は言われませんが、この私の足を、暑い時も寒い時も、石ころ道からも泥んこ道からも、常に守って下さった足袋ですから、ポイと捨てるのは何か申し訳なくて、一針ひとはり繕っては、ありがとうございましたと御礼を申してから、捨てさせてもらおうかと思っております。」

 と、そのように申されている口から、お念仏が、ひと声、ふた声、ナンマンダブツ、ナンマンダブツと、こぼれ出ておりました。

 このようにお話しを聞かせていただき、大変に感動をしたことを覚えております。この繕いものをしておられた方は、決して足袋を単なるモノとして見ておられたのではなく、私を守り続けて下さっている如来様が、タビという姿をとって守って下さってありましたと、合掌なさっているのではないでしょうか。

 いのちを大切に!とは口にしておきながら、ついつい「モノ」として見、粗末に扱ってしまっている私。本当におはずかしい次第であります。

 「イモを食べた。おイモさんの一生をいただいた」と、詩に書いた子に、ハッとさせられ、教えられたことがあります。

 近頃耳にしなくなった言葉に、「もったいない」というのがあります。

 もったいないのは、物が惜しいのでも、それを買ったお金が惜しい、もったいないのではありません。モノとしか見ることができず、“いのち”を粗末に扱ってしまっている私。この私が、申し訳ないことをしました、とお詫びする言葉が、「もったいない」のひと言なのであります。

 何一つとして、ひと様のお世話にならずして、手にし、口にしたものはありません。この“いのち”へのめざめ、それが「もったいない」とういう慚愧であり、感謝の心が、「南無阿弥陀仏」であります。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』(著者 :小林 顯英)より