沿革

感じる心

 仏教を学ぶということは、「学仏大悲心」といわれているように仏の大悲心を学ぶことです。阿弥陀如来が、苦悩の有情を必ず摂取して捨てずと働いてくださっている大悲心を学ぶことです。仏教を聴聞するということも同様に、仏の大悲心を聞くのです。仏の大悲心を聞くということは、頭で理解したり覚えたりするのではなく、全身でお慈悲のぬくもりを感じることです。摂取不捨の光明に照らされていることを我が身に感じることです。感じることによって、生かされている喜びと安らぎが生まれてくるのです。

 お念仏を喜んでいるひとは、「お慈悲はぬくいですなあ」と喜ばれています。浅原才市さんは、「くらがりわしの心に灯がついた。ご恩うれしや南無阿弥陀仏」と歌われています。また榎本栄一さんに、「私をみていて下さる人があり、私を照らしてくださる人があるので私はくじけずに今日を歩く」という詩があります。

 人間の知恵や知識より感じることの方がずっと心に響くのです。いくら仏教を深く学んでも、お慈悲のぬくもりを感じなかったら、喜びはありません。生きる力になりません。以前有名な宗教学者が苦しみに直面した時、今まで学んだ仏教が何の役にもたたなかったと告白していましたが、それは学問として薬の成分や効能をよく学び理解したとしても、本人が薬を飲まなかったら病気が治らないのと同じです。大事なことは、お念仏の薬を飲むことです。お慈悲のぬくもりを感じることです。

 仏さまの働きは、私たちの目で見ることはできません。しかし仏教を繰り返し聞くことによって仏さまの働きを感じることができるのです。本来仏とは、いろも形もなく、いのちの働きそのものです。形あるものは必ず壊れますから真実ではありません。

 永遠に滅びない真実がただ一つ、南無阿弥陀仏となって私に絶えず喚びかけてくださっているのです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より