沿革

ただ念仏

 鈴木章子さんが、モルモン教の宣教師さんと、仏の慈悲と神の愛の違いについて話し合われた時、
 「わたしとっても悪い子。仏さんのいうこときかない悪い子。仏さん南無阿弥陀仏の涙ポロポロこぼして、わたしを追いかけてくる。わたし悪いことすればするほど、如来さん泣いて追いかけてくる。それ大慈悲ネ。神さまの愛ちがう。神さまいうこときく子いい子、背く子悪い子。そこ、神さまの愛と慈悲はちがう」と、片言の英語で話されたそうです。

 私自身、僧侶として袈裟をかけ法務に励んでいますが、日々の生活は煩悩に振り回され、仏さまに背いた悪い子です。仏さまに願われていても、仏さまのことはほとんど忘れています。「逃ぐるもの」とは、まさに私自身のことです。この私をめあてに、阿弥陀さまはいつでも南無阿弥陀仏の涙をポロポロ流しながら、私を追いかけてくださっているのです。

 また私たちはお念仏に遇い、お慈悲が喜べたと思っていても、その喜びはすぐに消えて逃げていきます。いつでも喜びが持続するということはありません。信心をいただければいつでも喜べるという公式はないのです。「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざる煩悩の所為なり」といわれるように、私たち煩悩具足の凡夫は、喜んだと思っていても思い通りにいかないことに出会うと、すぐに腹をたて愚痴をこぼしています。浅原才市さんは、「よろこびはかぜのようなもので あてにならぬ ふいてにげるよ あとかたもなし」と歌われています。

 そうですから私たちがお慈悲が喜べたことがありがたいというよりも、すぐに喜びが消えて逃げる私をどこまでも摂取して捨てないと働き、喚び続けてくださっている阿弥陀さまのお慈悲がありがたいのです。たのもしいのです。そこに私たち凡夫が救われていく唯一の道があるのです。ただ念仏しかないのです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より