沿革

いのちの事実

 以前掲示板に、
「死ぬことはあたりまえ、生きていることが不思議」と書きました。死ぬことはあたりまえです。生きているということは、必ず死ぬということです。よく云われるように、人間の死亡率は百%です。一%も狂いません。老少不定で順番がなく、いつ死ぬかわかりませんが必ず死にます。早いか遅いかの違いです。

 逆に生きていることが不思議なのです。私たちは、いつ死んでも不思議ではありません。昨日まで、さっきまで元気だった人が突然に亡くなられたということはよくあります。お寺に住んでいると、そういう場に出会うことが多いです。少し前も五十才の男性が一瞬のうちに心臓病で亡くなられました。お母さんと奥さん、「さっきまで元気だったのに」と嘆いておられました。

 私たちは今、ここに生きているということは大変なことです。いつ死んでも不思議ではない私が生かされているのです。あたりまえではありません。目には見えませんが、多くのいのちの働きのおかげで生かされているのです。私たちのいのちは、自分が作ったいのちではありません。神が創ったいのちでもありません。無数のご縁によって生かされているいのちです。本来自分のものは何一つないのです。すべておかげさまなのです。

 しかし私たちは生かされていることを忘れ、自分の力で生きていると思いあがり、いのちの事実を見失っています。生かされている感謝を忘れ、すぐにあたりまえになり、感謝どころか少しでも具合が悪くなると、「足が痛い腰が悪い」と腹をたて愚痴をこぼしています。

 仏法を聞くということは、お念仏に遇うということは、〝あたりまえ〟が〝おかげさま〟に転じられてくるのです。自我のメガネで見ていた時は不平不満で一杯であったが、阿弥陀さまに自我のメガネをとっていただき、その眼で見たら生かされている事実に気づき、喜びや感謝で一杯になるのです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より