沿革

如来の働き

 仏教とは、仏の教えであると同時に、私たち凡夫が仏に成ること(成仏)を目的としています。また迷いを転じて悟りを開くこと(転迷開悟)をめざしています。仏に成るとは、迷いの世界から悟りの世界へ到ることです。

 仏とは、覚者・悟った者といわれるように迷いから悟りへ到達された方をいいます。逆に如来とは、「如より来生して」と言われるように、真如である悟りの世界から、私たち凡夫の迷いの世界へ来て働いてくださっている方をいいます。阿弥陀とは「無量寿・無量光なるが故に阿弥陀と名づく」と述べられているように、阿弥陀如来とは、限りない命(寿)と光である真如が私たち凡夫のところに来て、いつでもどこでも必ず救うと働いてくださっている仏ということです。

 私たちが迷いから悟りに到るために、自力で厳しい修行を実践いていく道もありますが、私たち凡夫にとって煩悩を滅すということは至難のわざです。仏教を学ぶこと、仏道を歩むことは、私が立派な人間や秀れた人間になるのではなく、逆に私自身の本当の姿が明らかになっていくことなのです。如来の真実・光に照らされ罪悪深重煩悩具足の凡夫である私自身の姿が知らされてくるのです。

 たとえば太陽の光に照らされると、塵(ちり)や埃(ほこり)や汚れがはっきり見えてくるように、私自身の底知れない闇の深さが明らかになるのです。何が私の姿を気づかされるのかというと、無量寿・無量光なる如来が私を照らしてくださっているから気づくのです。

 阿弥陀如来は、いま現に確かに私の上に働いてくださっているのです。私たちはいま、阿弥陀如来の摂取不捨の光明に包まれ、喚びかけられているのです。仏法を聞き、如来の働きに気づくということは、私自身の姿が知らされると同時に、如来の大悲に気づき、お慈悲のぬくもりを感じて生きる大きな力となるのです。自力で仏に成ることができない私たちが、阿弥陀如来に支えられ、浄土への道を歩み、浄土で仏に成る教えが他力の教えです。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より