沿革

不可思議光

 青木新門氏の「納官夫日記」の中で、「現代人に宗教を説き、信を求める時、この不可思議光が万物一切の本質であり、宇宙の真理であることを、どのように納得させ得るかが、問題なのである」と、提起されています。

 その通りだと思います。いくら阿弥陀如来が尊い仏さまで、十方衆生を必ず救うと誓ってくださっているといっても、現代人がその如来の働きに納得し、実感しなければ信にならないし、生きる力となりません。

 不可思議光とは阿弥陀如来のことであり、如来とは真如(宇宙の真理)より来て、いま現に私の上に働いているという意味です。どのように働いているかというと、お念仏となって私たちに喚びかけ、光となって私たちを照らしているのです。

 真如とは真実と同義語であり、「ありのままのすがた」ということです。真実とは真実それ自身が不実に働き、不実を不実と気づかせ真実へとかえしめる働きをもっているのです。つねに不実に向かって、「真実にめざめよ」と働き喚びかけているのです。

 また「真実は如来なり」、「如来は光明なり」といわれるように真実は必ず光となって不実を照らし、闇を闇と気づかせ、闇を破る働きをもっているのです。闇を闇とも気づかない私たちが、光に出遇った時、闇であった、愚かな凡夫であったと気づき闇が破れるのです。〝真実にめざめよ〟という喚び声や、つねに私たち照らしている光は、何時(いつ)から働いているかというと、久遠劫という遠い昔から働き続けているのです。それ故、無量寿・無量光の如来(阿弥陀如来)というのです。

 如来の光とは、人間の知恵や分別で思議できるものではありません。色や形もなく肉眼で見えるものでありません。しかし間違いなく、いつでもどこでも私を照らしてくださっているから不可思議光如来と呼ばれるのです。私が煩悩具足、罪悪深重の凡夫であったと気づくことは、不可思議光が現に私の上に働いてくださっていることの何よりの証明です。

『聞法(1996(平成8)年7月20日発行)』 (著者 :不死川 浄)より