沿革

命終わってゆく世界

 長生きがいいことだという考え方には、早く命終わることがつまらないことだという見方があるはずです。人はそれぞれの縁の中に終わってゆかねばなりません。命の長さに価値があるわけではないでしょう。仕事柄、亡くなったお方のおそばに行くことが多いです。そうすると自然と駆けつけてこられた人のお悔やみの言葉が耳に入ってきます。たとえば、ずいぶんお年を召して亡くなったりすると、訪ねてこられた人もちとにこやかな顔をされたりして、
 「あら、奥さん、お義父さん悪かったんやね」
 「そう、もうちょっと長生きしてくれはるかと思ったんやけど」
 「そうやね、でも寿命やないの。これだけお世話なさったんやもん、本人も満足したはるよ。あっ、そう、それはそうと奥さん、今度の旅行はいけるでしょ」
こんな話になって、それがもう少しお若いとそうはいかないですね。
 「お義父さん急やったんやね。お元気やったのに」
 「そう、孫のこと楽しみにしてたんよ」
 「ほんとに惜しいわ、まだ若いやないの」
そんな声が聞こえてくるんです。もっと若くて働き盛りの年齢ですと涙を誘いますね。
 「奥さん、なんでこんなことになったのよ。ご主人とこないだバス停でお会いしたんよ。なんで、どうして」
驚きが伝わってきます。それがもっとお若くなると、もう言葉もありません。高校一年生になったばかりの、立派な体格の男の子が突然、クラブ活動のあと倒れて亡くなってゆかれたことがありました。その時、お母さんの友人はハンカチで目頭を押さえたまま手と手を握りあうしかなかったですね。そうしたお姿に会いますと、どうも命終わってゆくのは若い時の方が値打ちがあるように思えるのですが。

 ある時、三歳ほどで亡くなったお子さんの五十回忌というご法事がありました。兄弟衆はもう五〇歳以上ですし、お母さんも八〇歳あまりになっておられる。ご法事が終わりますとそのばあちゃん、お母さんですが、お仏壇を指さして、
 「死んだあの子はね、小さい時から物わかりのいい賢い子でした」
と、しみじみおっしゃいました。そうすると残ったお子さんたちは……。

 まあその点、我々はちと長生きしすぎましたね。今さら急いでもしょうがない。この娑婆にしがみついてでもとどまってみようじゃありませんか。

 たとえ命終わってゆくことがつまらんと考えたって、どれほど長生きをしたって、必ず最後はやってきます。終わっていいんです。力無く終わってゆける世界を知らせていただきましたよ。それがお浄土です。力無く終わる時、まさにこの私が間違いのない世界に参らせていただく。今それに決定した日々を生きております。安心ですね。ならばこの上は、この日々をひとつ大切にしようじゃありませんか。阿弥陀さまに願われた日々。急ぐことはありません。力無く終わったら、その時がお浄土なんですから。

『聞法1998(平成10)年9月21日発行』 (著者 :若林 眞人)より