沿革

死亡原因は「生まれてきたから」

 お亡くなりになると、大急ぎでお寺さんを呼ばねばならん、できるだけあったかいうちに、近頃そういう考えをされるお方がずいぶん少なくなったように思います。よく、「お寺さんは大変でしょう、いつ電話がかかってくるかわかりませんもの」などとおっしゃるけれど、真夜中に知らせがあることなど久しく無いですね。みなさんご配慮くださるんでしょうか。

 私らより大変なのはお医者さんでしょうね。ご門徒のばあちゃんが亡くなりになった時のこと。ずっと往診に通っておられたお医者さんが通夜の席までお参りでした。控え室で着替えながらお話をさせていただきました。

 「急な葬式があると、お寺さんは大変ですなぁ」
 「いやぁ、先生の方こそ大変でしょうが、真っ先に連絡をされるのは先生でしょう。死亡診断書を書いてもらわないかんですからね」
 「まぁねえ、それは仕事ですから」
 「診断書というのは、困られることもあるんでしょうね」
 「そりゃありますよ。ふだん診察しておる病状と違うこともありますからね」
しばしそういう話題になりました。
 「先生、そういう時にはお寺で書いときましょうか」

ふと冗談みたいに申したことがありました。お寺で死亡診断書を書くようになったら簡単ですね。「このお方はなぜ亡くなったのですか?」「はいわかりました!」どう書くかといいますと、ひと言「生まれてきたから」と書けばいいのです。それ以外に原因はないのです。よく死亡原因などといいますが、あれはみな縁ですね。ある年齢になると、新聞を一番後ろのページから開くようになると聞いたことがあります。後ろから開いて何を見るかというと、下段あたりに亡くなったお方の記事があるじゃないですか。何気なく眺めつつ、自分よりうんと年を召した方ですと「ああ長生きをなさったなぁ」とさらりと読み過ごし、自分より若い人だと「まぁ若いのに」。そうして自分と年齢が近い人だともう一度読み返しますね。何を見るかというと、どこが悪かったか、どういう病気だったか。つまり死亡原因です。

 そういう気持ちはお互いありますね。だけどそれは「死亡原因」ではなく「死の縁」と言うべきでしょう。たとえ心臓の病でも一人一人皆違うのです。病気がその人を死なせたんじゃない、それが縁となっただけなんです。「因」はたった一つ「生まれてきたから」、「縁」は一人一人の上に無量の形であるわけです。われわれの生まれ出たところは生死の世界。『お正信偈』の最後のほうに「還来生死輪転家」とある、生まれた限り死んでゆかねばならない世界です。その生死の世界に生きるしかないこの私を目当てとしてくださったのが阿弥陀さまです。生き死にのまっただ中にあるこの私を生き場として「あなたを捨てない如来は今ここにいるんだよ」と宿ってくださいました。それが南無阿弥陀仏。今この身が南無阿弥陀仏の値打ち入り満ちたる人生なのです。

『聞法1998(平成10)年9月21日発行』 (著者 :若林 眞人)より