沿革

塩を撒くとは悲しいですね

 お葬式に清め塩が付き物だと思っている人は、まだずいぶん多いんじゃないですか。日本人の意識の中に死を穢れと考える思想がいまだに宿っているんですね。悲しいことです。

 恐らく、昔の人は死者を恐れの対象とし、生きている人間世界から遠ざけようとした。それを正当化するために、死者は穢れた存在だという理由付けが生み出されたのではないでしょうか。

 最近、私の近くでは清め塩を用いなくなってきました。それは葬儀社の協力もあって、中には「浄土真宗の葬儀ですから」と張り紙まで用意してくださるところがあります。

 なぜ穢れたものとされるのでしょう。命を願ったお方が亡くなったとたんに、汚いもの扱いをされるとしたら悲しいじゃありませんか。

 ある時のこと。毎日々々病院に通われて、お父さんの看病に尽くされた娘さんがおられました。そのお父さんがお亡くなりになった当日ばかりは病院に行けなかったそうです。

 臨終のお勤めが終わったその時、娘さんが駆けつけて来られました。どうなさったかというと、いきなりそのお父さんの顔に頬をすりよせなさった。

 「父さん、ごめんね!父さん、ごめんね!今日はいけんかったんよ」
抱きついてお別れの思いを表現されたのです。いいなぁと思いましたよ。汚いもんですか、怖いもんですか。

 またある時のこと。お参り先で。

 「私ね、この頃よくお葬式に行くんですよ。そうしたらね、清め塩というのが付いているでしょ。どういう意味か知らないけれど、なんでこんなバカなことをしなくっちゃいけないんだろう。亡くなった人はなんにも汚くなんかないのに。そう思ってから使わなくなりました。学生の頃、クリスチャンの先生だったんですが、この清め塩はね、焼きしめてあるいい塩なんだ。おいしいんだよとおっしゃって、おにぎりにふりかけてパクパク食べてしまわれたんです。」

 もし、塩が清めに役立つなら、お葬式の前に自分自身にふりかけておくべきですね。

 死者を汚れと見るこの煩悩が汚いのですから。

 我々はもう亡き人を汚れと見る、そういう必要のない世界に身を置かせてもらったのです。それを大切にしたいですね。

『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :若林眞人)より