沿革

求道心

 何故、私たちは道を求める心が起こらないのでしょうか。

 まず、生活が忙しい、煩悩生活が楽しく面白いが挙げられます。忙しいことで自分自身を見つめることを忘れ、煩悩生活が自己中心の生活であることにも気づかず生活しています。

 確かに精神文明から物質文明へと急速に移り変わる中で、自己の生活の為に他の者を傷つけることが平気だという人間が多くなってきているのは事実であります。

 人間の行為が善悪を基準としていた時代には善悪の思想が価値観の根底にありましたが、現代は人間の行為は損得が基準となり、多様化された価値観のすべてが損得を、その根底にしているようです。

 したがって、他の人のためとか、社会のためとかいう行為が少なくなり、自分のため、家庭のため、所属する団体や組織のために生きる人間が増えてきたのは当然のことかも知れません。

 しかし、仏教においては、いかに姿・形は人間であっても、どんなに言葉を巧みに使い、自分の意志を相手に伝えることができても、どれほど素晴らしい思考力や創造力を持ち合わせていても、それだけでは人間とはいわないのです。

 もしも、その人間に「慚愧の心」が無ければ畜生であるというのです。

 「慚愧」とは「罪悪観」であります。

 神戸でおきた小学生殺人事件、その他の殺人事件においても、共通していえるのは殺人がゲームになっていることです。

 だから、そこには「人を殺してしまった」という心の痛みや後悔の念も全くあらわれてきません。

 「涅槃経」という経典には、
  「慚愧無き者は名けて人と為ず
   名けて畜生と為す」と説かれています。

 「慚愧の心」「罪悪感」とは「自らの罪と悪を意識する心」であると同時に「より良き自己の完成を願う心・善を指向する心」であり、それが求道心であります。

『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より