沿革

聞其名号

 「聞く」という行為には、聞き違いということが生まれてきます。

 何を聞き違いするのでしょうか。

 私たちは親鸞聖人のお言葉を求道のところに持ち込んで、み教えを聞いているからであります。

 絶対他力の救いとは、絶対とは無条件という意味ですから、何も用意するものはないし、他力、本願力ですから、仏にまかしとけばよいという聞き違いがあるようです。

 このままで絶対他力におまかせすればよいということではありません。

 この信心の味わいが身につくまでのは、親鸞聖人は命がけの聴聞をなされたことを忘れてはなりません。

 信心の味わいを求道のところに持ち込んで仏教を本気で聞こうとしないのは大きな誤りです。

 私たちは何を「聞く」のでしょうか。

 親鸞聖人はお経に「聞其名号」(その名号を聞く)とありますのを解釈されて、
「衆生仏願の生起本末を聞いて、疑心あることなし、これを聞というなり」とおっしゃっています。

 単に南無阿弥陀仏の意味を聞き、理解するのではありません。お念仏をいただく時、今、私の口から南無阿弥陀仏のお名号が出ている。何故出ているのか。出ているということは私の「いのち」にとってどういう意義をもつものなのか。その「ことわり」を聞くのであります。

 私たちはこの生を受け、与えられた寿命を生き死んでいきます。では何をしに生まれたのでしょうか。
死にたくないのになぜ死なねばならないのでしょうか。この問いに答えてくださったのが阿弥陀如来であり、親鸞聖人であります。

 この世に生まれたのは如来の本願の法にあうためであります。なんのために人生を生きてゆくのか。如来のご本願を聴聞し、お念仏をいただき喜び伝えるためであります。なんのために死ぬのか、浄土に生まれて仏にならせていただくためと胸をはって生きることを聞かせてもらうことです。

『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より