沿革

仏になるいのち

 「五劫思惟之攝受」と葬儀の正信偈では声を高くして称えます。これは五劫という長い間、考えに考えぬいて思惟に思惟を重ねられた結果、ついに救いとり、仏にすることのできる方法を見い出したということを強調しています。

 ものごとを解決する場合、それに要する時間が長ければ長い程、難しい問題点を抱えているものです。それゆえに私の生き方がそれだけ愚かであり、悪である事実が「五劫思惟」の文字に明らかにされているようです。

 一言でいえば自分はエライもの、賢いものと勝手に思っているが、その逆の「罪悪深重の身」でしかないということです。

 もちろん、そのことを自分で意識しているかいないかは別です。事実として私は罪と悪が深く重い生きざましかしていないのです。

 悪の行為、日常的な行動に意識されるものと無意識のものとがあります。意識されるものは軽く浅いものではないでしょうか。

 これに対して深く重いものは意識できにくく分かりにくいものです。意識できてもやめにくい。

 「分っちゃいるけど、止められない」のが私たちの本性ですから、意識もなく、分ってもいないことがらについては改まることはまずあり得ないのであります。

 「改まることがない」ところに「深重」の語を付している意味があるに違いありません。

 したがって、悪人の悪人たる所以は、過去も、今も、未来にも「改めない」「改まらない」ところにあります。

 これを仏教では、
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなき身」といいます。これが私の本質であります。

 悪の意識があれば悪いことをした、二度とやらないようにして、直してゆきたいという心が起るはずなのに、それができません。だから、阿弥陀如来は私を愚人であり悪人であるとしめされました。私たちには清浄な心もありませんから、その点からいえば粗末な「いのち」です。

 しかし、どんなに粗末なものであっても阿弥陀如来はこれを粗末なままで終わらせないために本題を建て「仏になるいのち」となしてくださったのであります。

『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より