沿革

本願成就の名号

 阿弥陀如来は自分一人だけが仏になろうというのではなく、私たち十方の衆生を救うことをさとりの内容とし、条件としています。

 「私たちの往生」と「御自身のさとり」とを一体(一つ)に誓っておられます。

 私の娘が高校受験に失敗した時、親子とも暗い日々が続いたのを記憶しています。私たちの生活も親がわが子の不幸をさしおいて、親だけが幸せになれるものではありません。親にとって子どもの幸せが、親の幸せになるのであります。

 この私を救うてくださる阿弥陀如来は誰でも称えやすく、たもちやすい名号「南無阿弥陀仏」として、私たちにあたえてくださったのであります。この名号は、私たちが煩悩のため仏を見ることができないので、その世界に向って大声で存在を知らせる“名のり”であります。「名」という字は、夕方の“夕”という字と“口”という字が一つになった字であって“夕”になりますと暗いから、相手の顔がわからない、そこで“口”で自分の名前を名のり相手に告げるということであり、「号」とは“号令”の意であって、大声をあげるということであります。

 名号は、私たちに称名を「南無阿弥陀仏」と働きかけています。その名号の働きによって称名となるのであります。私が称える念仏は仏が働きかけてくれた念仏であります。

 私たちが仏になる願いと行(願行)の因も、往生の果もととのえられているのが「南無阿弥陀仏」であります。

 それを親鸞聖人は「本願成就の名号」といわれています。

 ”成就“ということは「なしとげること」「できあがること」という意味ですが、曇鸞大師は”成就“を次のように御解釈なされています。

 「願いが成就したということは、願いが願いであることにとどまらず、願いを実現すべき働きをそなえたということになります。そして、その働きがからまわりすることなく、願いの通り動くということであります。

 願いと働きがつりあい、少しもくいちがわないことを成就という」と言われています。

 私たちが銀行に預金をするとき、年にいくらの利子がつくことをわかって、預金をするのであります。すると銀行の方では、その預金高により、はたらき、利子がつくのであります。願いとはたらきがつりあってこそ、安心できるのであります。

『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より