沿革

念仏(1)

 毎日の生活を振り返りますと、疑う時に不安があり、信ずるところに安らぎがあります。

 通勤電車に乗るとき、今日、運転手の名前、車掌の名前は、と確認する人はいませんが、一度事故が発生いたしますと、不安がおそってまいります。

 人間は様々なものを一応信じて、拠りどころにしなければ生きられないのであります。

 「維摩経」の教典に仏をたとえた部分があります。「仏の大悲は人によって起こりこの大悲に触れて信ずる心が生まれ、信ずる心によってさとりが得られる。それは子を愛することによって、母であることを自覚し、母の心に触れて子の心が安らかとなるようなものである」といわれています。

 母は赤ちゃんに「オッパイちょうだい」「育ててちょうだい」と願われたから育てましたという母親はおりません。母は子どもに頼まれて育てるものではありません。

 子どもに願われなくても、頼まれなくても子を育ててこそ母であります。

 この私に、仏は大悲心を起こされたのであります。そして無条件に救いの手を差し出されているのであります。

 仏は私たちに「信じなさい」「頼りにしなさい」と条件を出されているのではありません。信じたならば頼りにしたならばでは、仏と私との間の取り引きになってしまいます。取り引き、商売の信心ではありません。

 ある念仏者が山犬におそわれた時、山犬に向かって合掌して、お念仏をしたそうです。その時、山犬は逆に山の方に逃げたということであります。

 この話をここまでで終わりますと、念仏によって山犬は逃げたのでありますから、念仏のご利益であります。

 しかし、念仏者は山犬の難をのがれたことを喜んではいません。むしろ山犬が逃げた時、泣きくずれたそうです。人を食うのが当然である山犬ですら、念仏者の姿には愛想をつかして逃げてしまった。

 三世の諸仏から見離されたということは、日頃聞かされていたが全くのうわの空で聞いていた。今日はほんとうの御説法にあったというのでした。

 この念仏者は、わざわいとしあわせの私欲の場には南無阿弥陀仏は全く使われていないのであります。

『聞法(1998(平成10)年9月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より