沿革

生活信条 第二

 一、み仏の光をあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます。

 自分の本当の姿を見るということは、仏の智慧の光明との出遇いによりうつし出され、初めて私の本性というか姿がはっきりと知らされてくるのであります。

 法事の時、奥さんが「主人をなくして、一年になりますが、やっと生きている実感というものがもどってまいりました」とおっしゃるのです。そのご主人は登山というか、山を歩くのが好きだったのですが、和歌山の紀見峠を歩いている途中、胸が痛くなり脇道にすわり込んだまま亡くなられたのです。

 私は、この奥さんも世の中でいわれているようにご主人に先立たれた女性は立ち直りが早いという女性のタイプかと思ってしまったのでありますが、そこから素晴らしい話が展開されたのであります。

 さらに奥さんは、『お寺さん、この世の中に「あたりまえ」などないんですね。

 私がいて主人がいた。それが「あたりまえ」と思っていましたが、主人が亡くなってから「あたりまえ」ということがないということを知りました。私がいまここで一周忌を迎えられることも「あたりまえ」ではないんですね。感謝せんといけませんね』とおっしゃったのです。

 夫を失うことによって、真実世界を知り、私自身の本当の姿を知らされ、感謝の中で生きられているようでありました。本当の法事に出あって充実した一時でありました。

 親鸞聖人は自分の心にうそ・いつわりを持って生きていく事が出来なかった方です。法然上人との出遇いによって、お念仏に救われていくみ教えに帰依し、他力の道へ入られたのです。南無せよ、南無せよと呼んで下さる阿弥陀如来に生も死も全くおまかせして、お念仏こそ私の人生であるといいきらさせていただくそのままが、救われていくということであります。

 仏の光明に照らし出された私は虚仮不実の我が身であります。しかし汚れた心の中に清らかな仏の心が生まれるのではないでしょうか。

 我執を軸にしていた私が常に如来の慈悲の心にたちかえらせていただき、慚愧と感謝の生活に転じていくのであります。

『聞法(1999(平成11)年7月21日発行)』(著者 :佐々木義信)より