沿革

浄土真宗の生活信条を味わう④

 「み仏の光りをあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます」について、さらに味わってまいりましょう。

 あるお寺の掲示板に「闇にありて闇を知らず 光にありて闇を知る」とありました。「闇」とは「無明煩悩」のことでしょう。親鸞聖人は「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」と述べられました。暗い部屋の中では何も見えませんが、そこに光が差し込むと空気中の塵や埃までがよく分かります。阿弥陀さまの光にあうことによって、自分自身の愚かさが気付かされるのです。さまざまなご門徒さんの家にお参りに寄せていただきますが、お茶を飲みながら世間話になると家族の悪口を言わないと気が済まない方がおられます。私も適当に相づちを打っていますが、腹立たしいやら胸が痛いやら、聞いていて気持ちのいいものではありません。それで、毎月その家にお参りに行くのが嫌でたまらないのです。しかし考えてみますと、その方をさばいている、私自身の心のお粗末さが知られるのです。

 蓮如上人は「人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろきことはおもわざるものなり。わが身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候ふとおもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふことをばよく信用すべし。わがわろきことはおぼえざるものなるよし仰せられ候ふ。」と述べられました。

 「み仏の光りをあおぎ 常にわが身をかえりみて」とは、お恥ずかしい自分自身を振り返るということです。また、親鸞聖人は恩徳讃をどんな思いで書かれたでしょう。「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」このおうたを何百回うたったか知れませんが、口先だけでうたっていることに恥じ入るばかりです。阿弥陀さまがお粗末な私をお救いくださるというのに、私はそのご恩に報いることができません。末代無智の御文章には「ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり」とお示しでございます。お念仏は声の仏さまです。「いつも見ているよ いつも傍にいるよ」と、呼び続けてくださる阿弥陀さまの声に励まされて、お恥ずかしい私を知らされ、お朝事お夕事を勤めさせていただきたいものでございます。
『北御堂テレホン法話 2008年4月より』