沿革

浄土真宗だけのおはなし④

 私たちは、ついつい己を先に立てる習い性が染み付いています。それは自力であって捨てていくものでありますが、この捨てることは、私の力ではまた到底かなわないものであります。これを捨てさせる働きもまた、阿弥陀如来の働きによるものであるとしらされます。それは私の、自身に対して持つ心配など遠く及ばない阿弥陀如来の私への心配であるからでしょう。

 さて、それを教えていただける尊いお話しを先輩から聞かせていただきましたので、この度のご縁の最後にご紹介させていただくのです。

 先輩のお知り合いですが、お母さまがおられました。ずっと育てていただき、感謝するばかりのお母さまでしたが、ついに重い病にかかり入院されました。お医者さまからは、もうそんなに永くないと言われていましたので、ご兄弟で交代交代看病されていました。困ったもので、永くないと言われて、そこからの一日一日の看病は辛いものでありました。ただ何も言われないお母さまの側で、夜を過ごすだけの繰り返しです。いつしか、心のどこかに『私ももう看病に疲れてきたなあ』と思うようにもなっていました。その息子さんが、ある時夜の看病の当番になりました。昼間の仕事の疲れもあり、ただお母さまのベットの横に座っていますと、ウトウトし始めました。ふと背中に重さを感じて眼を覚ますと、寝ていたはずのお母さまが起き上がって、毛布を自分の背中に掛けようとされていました。とっさにその息子さんは「お母さん、寝てなくてはダメじゃないか」と、ビックリしてそう言われたそうです。するとお母さんは、「あんたそんな格好でおったら、風邪を引くではないか」とおっしゃったのです。お母さまは、まもなく息を引き取られたのですが、最後の最後まで、母親の子どもを心配する気持ちは子どものそれを超えていたと言われていました。

 私たちは、自分がなによりも苦労していると思い、やがては親を支えるまでの自分と思います。しかし、本当の親さまの心配、そしてお育ては、どれだけの私であってもそれを超えていると知らされるばかりです。

 浄土真宗は、阿弥陀如来の救いの働きのご恩への恩返しは問いません。代わりに“御恩報謝”と言います。“報謝”、つまり“御恩”に対して感謝し、頭を垂れていくばかりです。ご恩を背負って生きていくことができるのが浄土真宗なのです。しかし、それは限りなく無尽に拡がり続く変わらない阿弥陀如来と私の関係であると知らされていけるのです。いつでも、どこでも、どんな時でも阿弥陀如来の前で法悦に浸らせていただける。それが浄土真宗のご法義であります。

『北御堂テレホン法話 2007年1月より』