沿革

本願力にあいぬれば③

 祈りのない宗教 浄土真宗

 日本はいつの間にか世界でも有数の自殺の多い国、ということになっているようです。特に子どもの自殺が多いのには心が痛みます。「命あっての物種」と言います。「死ぬ気になれば何も怖いことはない」とも言います。「命あればこそ」は何処かに行ってしまったのでしょうか。

 人生には“苦”が伴います。自殺する人は、多分生活の中での苦、特に人間関係の中での苦に耐え切れず命を絶ったのでしょう。しかしもっと根源的な苦。「生そのものの苦。人間であることの苦」を忘れてはいないでしょうか。人間だけが、やがて死なねばならない身として生きていることを知っています。このことに気がつけば、“生”をもっと切実に思うのではないでしょうか。

 一方では、何とか“死”を近づけないようにしています。縁起が悪いとかいって死という言葉さえ嫌がります。

 年回りが悪いから台所の改装を延ばしたという話を最近聞きました。よく聞いてみると、リフォームの設計者がそう言ったと言います。科学が進めばこんな迷信は無くなるはずです。ところが、ますます増えてきています。死を予見することができる人間には全てのことに不安が付きまといます。人間に不安がある限り迷信は解消しないでしょう。

 死者が出ると葬式屋さんが来て、湯かんまでしてくれます。家族でしたものです。そして死を実感したものでした。子どももそれを取り巻いて、冷たく動かないおじいちゃんを見て死を実感したものでした。せめて顔に手を触れさせて冷たくなった肉親を感じさせることはできないでしょうか。“死”を直視してこなかったことから“生”を軽く見る結果を引き起こしていると思います。

 善因樂果 悪因苦果(ぜんいんらっか あくいんくか)と言います。「樂果」を得るほどの「因」を作ることができますか。「因」が無いのに「果」は出てきません。「悪因」は山ほど作ってきています。「悪果」を覚悟しなければなりません。「地獄は一定すみかぞかし」ではありませんか。

 その私たちに対して阿弥陀如来のご本願は、私のねがい、思いに先立って働いていただいています。先立って働いていただいているからこそ、祈りの無い教えとなっているのです。私の祈りに先立って、阿弥陀如来は願いをかけてくださっています。

 祈る必要がない浄土真宗です。『現世利益和讃』に、「南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに よるひるつねにまもりつつ よろづの悪鬼をちかづけず」、「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり」、「一切の功徳にすぐれたる 南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり」
『世の中安穏なれ 仏法ひろまれ』と親鸞さまはご消息で申されています。

『北御堂テレホン法話 2007年3月より』