浄土真宗の生活信条を味わう⑤
本願寺第三代のご門主である覚如上人が「改邪鈔」を著わされています。「改邪」というのは「邪を改める」と書きます。浄土真宗の僧侶、門徒の中で間違いを犯していることに対して、改めていくようにと書かれたものです。その内容を現代的に解釈して、引いていきたいと思います。
先日、満中陰のお勤めがありまして、白木のお位牌の法名を過去帳に書き写しました。浄土真宗ではお位牌は使いませんし、白木のものは中陰中の仮のものです。ですから、書き写して白木のお位牌は持って帰ることにしているのですが、その時もそうしたのです。そうするとご遺族の方が「ああやれやれ。ホッとしました」と仰いました。私は何がホッとされたのだろうかとけげんに思い「ホッとしたとはどういうことですか」とお尋ねしました。そうすると返ってきたお答えが「過去帳に写してもらったから、これでこの人も成仏できたと思うと、ホッとしたのです」ということでした。つまり、亡き方は中陰の間、成仏していないと思っておられたのでしょうね。中途半端なままうろうろされていて、仮の居場所が白木のお位牌なのです。それが満中陰のお勤めをして法名を過去帳に書き込むと中途半端な状態だった亡き方が、落ち着くべきところに落ち着いて成仏されたと受け止められたのでしょう。
「改邪鈔第一条」には、名帳(みょうちょう)について書かれています。名帳というのは、師弟の関係を系図の形で示した名簿という意味合いだったのですが、いつのころからか、そこに名前を書き込んでもらうと往生間違いなしと言われだしました。みんな書き込んでもらうことを望み、また、書き込んでもらったらそれでもう救われることに間違いなしと喜んだのでした。この名帳を現代的に解釈しましたら、過去帳が近いのではないかと思います。しかしながら、名帳との決定的な違いは「自分が救われるかどうかを問うのではなく、亡くなった方の法名をそこに書き込んでもらうことで亡き方が救われた」と受け止めることです。そこには私のことは問題になっていません。自分の救いを求めるのではなく、すでに阿弥陀さまに救われた亡き方がまだ迷っているように思っているのです。そしてお経をあげて過去帳に書き込んでもらうことで「やれやれ亡き方はやっと往生した」と残った者が喜んでいるのです。でも、迷っているのは私自身です。その私を、必ず救うと働いてくださる阿弥陀さまにあわせていただくことが、大事なのです。
南無阿弥陀仏
『北御堂テレホン法話 2008年6月より』