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法語を味わう(3)

いくつ年を重ねても
阿弥陀様さまの
光に照らされる
我が身のうれしさよ

 地元(じもと)の老人(ろうじん)施設(しせつ)での法話会(ほうわかい)での出来事(できごと)です。

 百歳(ひゃくさい)をいくつか越(こ)えられ、すでにご家族(かぞく)の方(かた)の顔(かお)すら忘(わす)れておられるようなおばあさんがおられました。車椅子(くるまいす)で一番前(いちばんまえ)に座(すわ)っておられたのですが、法話(ほうわ)の途中(とちゅう)に何(なに)やら独(ひと)り言(ごと)をボソボソ口(くち)にして、両手(りょうて)を合(あ)わせておられます。

 よく聞(き)くと「ありがたい、もったいない」と言(い)っておられました。他(ほか)の何(なに)もかも、自分(じぶん)の家族(かぞく)の顔(かお)すら、いずれ忘(わす)れてしまいかねない私(わたし)の身(み)の上(うえ)です。長(なが)生(い)きをするということはそういうことなのでありましょう。

 法話(ほうわ)が終(お)わり、私(わたし)が「皆(みな)さん、阿弥陀(あみだ)さまの方(ほう)へ向(む)いて、お念仏(ねんぶつ)申(もう)しましょう」と言(い)いかけた途端(とたん)、その場(ば)におられた他(ほか)の誰(だれ)よりも大(おお)きな声(こえ)で「ナンマンダブー」と、そのおばあさんが申(もう)されました。

 いつでも、どこでも、いくつになっても阿弥陀(あみだ)さまに願(ねが)われ、お念仏(ねんぶつ)申(もう)す身(み)にお育(そだ)ていただいた有(あ)り難(がた)さを共々(ともども)に慶(よろこ)ばせていただきたいものです。

(本願寺派布教使 安芸教区 安部 敏孝)

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