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法語を味わう(18)

人身(にんじん)受(う)け難(がた)し
今(いま)すでに受(う)く
『礼讃(らいさん)文(もん)』
人身(にんじん)受(う)け難(がた)し
今(いま)すでに受(う)く

 これは仏教的(ぶっきょうてき)な考(かんが)え方(かた)です。仏教(ぶっきょう)はすべてのものは、因(いん)(直接的(ちょくせつてき)原因(げんいん))と縁(えん)(間接的(かんせつてき)原因(げんいん))によって生(しょう)じていると観(み)ます。誰(だれ)かによって造(つく)られたいのち、或(ある)いは、一(ひと)つの因(いん)と一(ひと)つの縁(えん)によって在(あ)るというのではなく、無量(むりょう)無数(むすう)の因(いん)と縁(えん)によって成(な)り立(た)っていると考(かんが)えます。いのちは無数(むすう)に存在(そんざい)するが、人間(にんげん)としていのちを頂(いただ)くことは滅多(めった)に無(な)いという感動(かんどう)です。

 私(わたし)たちは、人間(にんげん)に生(う)まれたことを当(あ)たり前(まえ)と思(おも)って生活(せいかつ)しています。人生(じんせい)は楽(たの)しいこと嬉(うれ)しいことだけではありません。悲(かな)しみや淋(さび)しさ、病苦(びょうく)や別離(べつり)との二人三脚(ににんさんきゃく)でもありますが、様々(さまざま)なご縁(えん)によって人間(にんげん)に生(う)まれさせていただいたということを本当(ほんとう)に見(み)つめ直(なお)し考(かんが)えたいことです。         

本願寺派(ほんがんじは)布教使(ふきょうし) 藤田 眞哲(ふじた しんてつ)

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