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法語を味わう(19)

心(こころ)が洗(あら)われたことなど
 一度(いちど)もない
私(わたし)が 弥陀(みだ)の大悲(だいひ)で
 救(すく)われる (大峯 顯(おおみね あきら))

 私(わたし)たちは、ご法話(ほうわ)を聞(き)いたり、お寺(てら)にお参(まい)りすると心(こころ)がきれいになると思(おも)いがちです。けれども、その大部分(だいぶぶん)は思(おも)いちがいではないでしょうか。外(そと)に出(で)たらいつもの私(わたし)です。私(わたし)はほとんど変(か)わっていません。それでいて、やはり何(なに)か良(よ)いことをして認(みと)められたい。これが私(わたし)の本性(ほんしょう)なのかもしれません。

 少(すこ)しくらいきれいになっても、すぐに自分(じぶん)で汚(よご)してしまうのが私(わたし)です。このことを阿弥陀(あみだ)さまはよくご存知(ぞんじ)で、この凡夫(ぼんぶ)の悲(かな)しみに同化(どうか)してくださるのです。これが阿弥陀(あみだ)の大慈悲(だいじひ)です。

 そして、凡夫(ぼんぶ)の私(わたし)たちを救(すく)う道(みち)があると告(つ)げてくださるのです。 

(本願寺派布教使 寺澤 真琴(てらさわ まこと))

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