法語を味わう(22)
仏法(ぶっぽう)は
聞(き)けば聞(き)くほど
落(お) ちてゆく
どこ へ?
阿弥陀仏(あみだぶつ)の胸(むね)の中(なか)へ
私(わたし)たちは賢(かしこ)くなりたいし、他(ほか)の人(ひと)からも、より良(よ)く見(み)られたいものです。でも仏法(ぶっぽう)は聞(き)けば聞(き)くほど、自分(じぶん)が何(なに)も判(わか)っていなかったことに気付(きづ)かされてゆきます。聞(き)けば聞(き)くほど愚(おろ)かであったと気付(きづ)かされてゆきます。自分(じぶん)の中(なか)には何一(なにひと)つ誇(ほこ)るものがない、でもだからこそ阿弥陀仏(あみだぶつ)はそんな何者(なにもの)にもなれない、この私(わたし)をしっかりと抱(いだ)いていてくださることも知(し)らされます。浄土(じょうど)は愚(おろ)かなまま落(お)ちてゆくところです。
逆(ぎゃく)に、より賢明(けんめい)になったと思(おも)い込(こ)み、他者(たしゃ)を追(お)い越(こ)して、より上(うえ)に上(うえ)に這(は)い上(あ)がってゆく先(さき)にあるのが地獄(じごく)です。
(本願寺派布教使 福間 義朝(ふくま ぎちょう))