法語を味わう
2022年10月
まっさらな
朝のどまんなかに
生きていた
いや
生かされていた
(東井義雄師)
東井義雄師の「目がさめてみたら」という詩の最後の一節です。皆さんは「目がさめてみたら生きていた」ことに驚きや感動を持ったことがありますか?
生きていることが「当たり前」と思っている私たち。そうした私たちに仏さまは「当たり前ではない、多くのご縁によって生かされている」ことを教えてくださいます。
この詩の最後は「生きていた いや 生かされていた」と結ばれています。新しい朝を迎え、今日も「目を覚ますことができた」「生かされていた」という感動が伝わってきます。「当たり前」と思っていたことが、「当たり前ではなかった」という気付きです。
昔、テレビで活躍をされたある司会者の方は、「朝が来た 新しい朝が来た 自分のための新しい朝だ」という言葉を大切にされていたそうです。これは仕事で悩んでいた時に、お父様から送られた言葉だそうです。
「今日もまた新しい朝が来た。お前のために朝が来たんだから粗末にするんじゃないぞ。」
朝目が覚めたら生きていたという不思議。もしかしたら目がさめなかったかもしれない。その「いのち」が今日もまた、生かされていたという感動。その不思議と感動を深く味わうところに、また今日も新しい朝が来た、力強く精一杯に歩んで行こうという喜びが湧いてくるのではないでしょうか。